ご幼少のみぎり、状況すら掴めないまま憤っていた記憶が蘇った。と同時に、その状況を物心ついた状態で判断することでその状況を掴むことができた。その状況とは、お祭りやお散歩等のイヴェントにおける稚気染みた怒りである。いや稚気なんだけど。3歳だしー。
当時の自我は、皆は楽しそうに見えるが自分は何故か楽しくない、慣れない感情に不安を感じていたと結論づけていた。しかし、現在の肥大した自我はその現象を、自分がお散歩に呼ばれた理由はお刺身のツマたる立場を押し付けるためだと推察したのだ。
つまり、自分が愛されるべき立場に居ることを識る3歳のクソガキは、イヴェントは自分のような子供のために開催されるべきであって、自分のような子供がイヴェントのために使われるべきでないと識っていて憤ったのである。最近ようやく、人間の一生における子孫の存在の軽さに気付いたため斯様な思考へ至った次第だ。
あと3歳の時点で自分の存在の軽さに気付かなかったということは、パパとママの愛に育まれて幼年期を過ごしたということか? そりゃ結構。
とは物心ついた時、既に高校生くらいだった俺の言であるため説得力はない。