コミューニケーショーンのーりょくを示す重要なスキルのひとつに、対話相手のちのーに合わせた表現を選ぶのーりょくを挙げられる。ということは相手のちのーを観測する段階からコミューにケーションは始まっているわけであり、この観測気球の飛ばし合いでお互いのちのーを推し量っているのである。ここで見かけの知能を明らかにし、使用する言語空間を選んでから本題が始まる。このように本題の前座試合で見かけの知能を教えあう行為が発生すると規定した場合、見かけから判断を誤ると妙な対話を繰り広げるはめになる。
そんな概念もコミューにケーションに含まれるため、見かけの知能を操作して今後の政治的立場をよいものとする詐術も発達する。ただ、現代に出回る詐術は自分を実際以上に知的な人格者として見せることに特化しているため、その詐術自体に手垢がついている。こうした前座では、見かけの知能を高く見せたがる発想がすでに負けなのだ。
というか今思いついたところ、観測気球の飛ばし合いそのものを本題にすると面白いと思ったがそれは茶道ではないか。
あと書きたかったことは、自分を知的に見せようとする努力を捨てるのもひとつのやり方だ。見かけの知能が高い人間と高度なコミューにケーションを図ろうとして滑る例を何度も眺めるのは、見るほうも受け取るほうもめんどくせーんだもん。貴族連中が反知的であることと同じ考え方である。