地頭が良いであるとか、賢いであるとかいった言葉で他人を評する人間に限って地頭が良くなかったり賢くなかったりするのはどういうわけだ。自分にないものを認めているのか?
ところで、言語野由来の意味で耳を遠くするスキルを身につけた。つまり、鼓膜の性能低下でなく日本語認識能力に疑いを持たれるほうの耳の遠さである。とくに若い娘によるきゃらきゃらした喋りではLPFの助けを借りられるので発動効果を認識しやすい。
このスキルを#invokeすると、日本語のネイティヴ・スピーカーによる日本語の喋りがマイルドな広東語にしか聞こえなくなる。いや、広東語をヒヤリングできないからそう思うだけかもしれんが、とりあえず小綺麗な格好をした日本人が大真面目な顔で「あーみるぽれん、ならちるみるほいにら」と流暢に喋る風景を体験できるようになるのだ。
なお、このように日本語に聞こえなくても日本語の音素として再生および記述可能な点は興味深い。解釈して記述する日本語と、音声を日本語に起こす差を慎重に検討すれば、聖徳太子ってか、カクテル・パーティってか、地獄耳方面の実用化を図れるのではないだろうか。
このスキルについてわかりやすい例で言えば、洋行帰りの若人にみられる傲慢と自虐の綯い交ぜになった心情の吐露として「日本語が聞こえない」と発言する状態はパッシヴなスキル発動状態と言え、今回習得したものはアクティヴなスキル発動であると言えよう。
ところで、綯い交ぜという言葉の響きはなんとなく独語っぽい。グナイゼナウみたいだ。
ところで、ノイマンだかチューリングだかが複数の思考スレッドで数を数える問題に突き当たっていたことを思い出したが、映像+音声に加えて触覚や味覚のハッシュで数える方法により容易に解決することも思い出した。簡単に言えばこうだ、カレンダーをめくる映像+口に出して数える音声+指で平面を叩く触覚+ココイチ・カレーの辛さレヴェルを使えば、4つの方法で同時に数を数えられる。すなわちマルタイ・メディアである。マルタイ! マルタイ!